
わざは長し、生は短し(Ars longa vita brevis)とともに、味わい噛みしめてみよう - 本書で触れている物質的欲望の有限性と、これを引き延ばそうとする欲望について、間々田孝夫先生が引用されていた(『消費社会のゆくえ―記号消費と脱物質主義』有斐閣、2005、pp.55-64)。間々田先生は「ゆとり消費」と呼んでいるが、これが可能な人々とそのようなサービスを提供するために、ますますゆとりどころではなくなる人々が増えることになるのではないか、という指摘があった。 著者は、消費社会を展望するに当たって、1984年の刊行ではあるが、集団と個人、生産と消費、消費と消耗を、ダニエル・ベル以降の現代社会を立体的に観察する。徐々に核心に迫る書き方で、満足を急ぐ欲望と満足を先送りする欲望、すなわち量で計測可能な満足と将来の欲望を限定し対象化してゆこうとする点、生産する人間の硬直さについて自己に対して克己的であり他人に対しては傲慢(ごうまん)的であるという点、これらを自我の発生と成長の過程から説明する。 自我というものを学んだことのない者にとっては、後半やや整理が間に合わなくなる。しかし、例示や言葉をかえての記述と説明がそれを補助してくれる。研究者というのはこうでなくてはいけない。論点は、満足を先へ送る自我と引き延ばす自我に移り、生産する自我と消費する自我に対置して後者の消費行動のスタイルを問題にする。 スタイルとは、何か。「一定の同一性の幅の中で柔軟に変わることが本質」(p.188)であり、「信条とは正反対のもの」(p.189)だ、というのが著者の前提だ。生産者だからといって、消費する自我を持ってはいけない、という言い方はしていない。 わたしたちも、統一された自我に対して、より柔らかさを持つ視点で現代の「心理の構造」(p.209)を再び定式化して、情報社会という現在を解釈してみてはどうだろうか。 目次、章節項(小見出し)。参考文献、脚注にあり。索引、なし。ひも、なし。
「顔」が見えてきた時代 - 80年代当時の筆者の視点から60年代以前から70年代までの日本の、主に消費者の変化が論じてあります。60年代以前は禁欲的、プログラム的で消費者の「顔」が見えない生産至上主義な時代、それに対して70年代は多品種少量の時代で人々が自分をかけがえのない人格として自己固有の趣味を形成し始めた時代としています。衣服は「着れればそれでいい」からデザインを気にするようになり、消費動機も機能よりデザイン・イメージを重視し、消費の過程を楽しむ時代であると主張し、筆者はそれを、他人と触れ合いつつ柔軟に自己を形成していく「柔らかい個人主義」として支持しています。
人間は変態化するのがいいんだけど - 「茶室で無限の宇宙を感じる」とか「オンリーイエスタデイズ70’S」とか いえり だったと記憶してるんだけど 柔らかい個人主義の芽生えという本だったはずで 兎に角一度もう枯れてないかなあと心配でお会いしたい一人 そう言えば能書きもありだけど僕は東京が好きで歌舞伎も嫌いな石器時代で 2pacで川原でかぶく方が好きもちろん多摩川